生きるか死ぬか、ここが最終防衛ライン。

あなたは八百屋さんを営んでいるとする。

今日も市場に仕入れに向かうと、白菜が1玉100円で売られていた。

最近急に寒くなってきたから鍋をする人が増えそうだと考えたあなたは早速10玉買い込み自分の店に並べる。

予想は的中し、1玉200円に設定した白菜はあっという間に完売。ここに粗利(200-100)円×10玉=1000円の誕生である。

 

お金を稼ぐ、とは、仕入れ値より高く販売することで、その差額を懐に入れることである。白菜を10玉ではなく10万玉仕入れる場合は、あなた一人では手が足りないので、粗利のいくらかを支払い、従業員を雇えば良いだろう。もし同じように売れれば、1000万円の粗利だ。

 

 

多くの人は毎日通勤電車に揺られ、仕事をし、そしてサラリーを受け取っている。ちょっと想像してほしいのは、一体あなたは何を売って得た利益から、給与が捻出されているのか、ということである。

(そもそも雇用関係は使用者と労働者の間の契約であるから、そんなもの関係ないという意見はしまっておいてほしい)

 

昨今、主要国で唯一日本だけが賃金水準の上昇がみられず、「安い国」に成り下がっているという指摘があるが、つまりそれは、1億人が、さしておいしくない商売(付加価値の少ない仕事)を30年間やり続けていたことに他ならない。

確かに、経世済民の考え方からすれば、おいしくない商売を続ける臣民の生活水準を向上させるのは為政者に課せられた使命なのかもしれない。これまで日本でも繊維産業から重工業への産業構造の変化を促してきた悪名高き役人ーNotorious MITIたちの奔走があって、世界第2位(今は3位ですが)の経済大国に上り詰めることができた経験がある。

しかしながら、足元では、目先の業務にがんじがらめになった労働者が半ば盲目的にただ今日も生きながらえているだけ、というのが実情ではないだろうか。経済大国ボケでもないが、今のポジションをゆるぎないものにすることに関しては、積極的な努力はしないが、それを脅かすリスクは徹底的に排除する。そんな思考に陥っているように感じる。と考えると、中国のような超全体主義的な政治体制もあながち間違っていないのでは?と思ったりする。

 

さて、ここ15年ほどの動きを鑑みると、かつて日本のお家芸と呼ばれた様々な業界にあっては、経営不振に陥ったメーカーが買収され、低賃金で頑張る有能人材がハイサラリーを餌にヘッドハントされ、一方国内需要はデフレから脱却できずしぼみ続けたため、技術優位性を生かした高付加価値帯製品が、市場でマジョリティを占める気配など全くない。メモリ、半導体、家電、太陽光パネル、国内の主要産業が次々と根絶やしにされた挙句、今度は脱炭素の文脈で進むEV化の波に、聖域たる自動車産業が飲み込まれようとしている。

 

ご承知のとおり、自動車産業垂直統合型の産業で、約3万点の部品を中小の町工場がジャストインタイムで生産・納品するサプライチェーンが構築されてきた。しかし、EVは部品点数がそもそも少なくなるばかりか、価格の3割を占めるリチウムイオン電池の性能や安全性が自動車そのものの価値に直結するという、これまでの自動車とは一味も二味も異なる製品となっている。

まさに今、リチウムイオン電池の市場獲得競争が過激化しており、これを守れなければとうとう自動車産業が危うい。いわば最終防衛ラインである。調べれば調べるほど不都合な真実をたたきつけられる毎日に焦りと緊張を感じながら、この国は、これからどのようにしてお金を稼いでいけるだろうかという超難問に、僭越ながら、日々悶絶するのである。