私にもっといい未来

学生時代の青臭さもすっかり忘れ、職場の希望調書も白紙で提出するようになって早数年。ふと電車のドア上ディスプレイに流れる専修大学のCMに目が留まった。

高校生が雨に打たれながら将来を夢想するという、行ってみればありきたりなコンテではあるのだが、そのコピーが示唆的で秀逸である。

私にもっといい未来


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縛られていないか?

世のため人のため、あるいは会社や組織の利益のために、私のようなサラリーマンは日々業務をこなし、勉強をし、研鑽を積んでいる(はず)。

しかしながら、毎年3月に国連SDSN(持続可能な開発ソリューションネットワーク)が公表する150以上の国等を対象とした幸福度調査において、日本は先進国でありながら50位に甘んじている。

もちろん、政治不信や経済政策のちぐはぐさ、伝統と多様性のアンバランスなどなど、社会情勢に起因した結果であることに異論を申すことはしない。

他方で、情報に溺れかけ、取捨選択だけで精一杯な私のような人間は、日々、思考がカスタマー化しているとどこかで自覚している。それこそ、待っていれば白馬に乗った王子様が私を迎えに来てくれると信じて疑わない行き遅れ寸前のロマンチストのように、とりあえず今日、明日、明後日を一生懸命乗り切った先には明るい未来が待っていると信じている。

しかしそうだろうか。パワハラ、セクハラ、ワープア非モテ、借金、ギャンブル、薬物依存、、、と、このように本来”あるべき”人生像とはかけ離れた事例が次から次へと、枚挙に遑がないのはなぜだろうか。そもそも、私自身、こんな時間にブログを書いていること自体が生物としておかしい気がする。自律神経をやっているのかもしれない。

話を戻そう。

例えば私を例にとれば、なぜ、自律神経がおかしくなりかけているのだろうか。

 

自らにとって最善の選択をし続けることの困難さ

その答えは、極端に言えば、何のために生きているのか、という問いに等しい。指名というより宿命の方が言葉としては近いか。

この世に生を受け、何を果たすのか、あるいは、果たさないのか。それを自分の意思で決めているか、否、決めることができる環境に身を置いているかどうか。どこかで無理をしていたり、理屈と相反する行動を伴っていると、どこかに嘘が生じて、「何でこんなことに、、、」と皺寄せがきているに違いない。

従って、本来的には、自分が得をする行動を取り続けられるよう、細心の注意を払いながら生活をしていくこと、そういう生活に少しずつでも近づける努力をすることが、いわゆる”幸せな生活”への第一歩と思われるが、このブログでそんな偏差値30みたいなことは断言したくない。こういうことが言いたかったわけではないのである。

専修大学のCMに登場する「私にもっといい未来」というコピーは、全くそのとおり、違和感を感じない至極真っ当で、本能的で、もしかしたら、何を今更そんなこと言ってるんだ。これだから日東駒専は〜、などと軽く見られてしまうようなものである。

しかしながら、上述したような示唆に富んでおり、かつ私を含め情報社会に飲み込まれつつあるくたびれたサラリーマンの苦悩の確信に迫るような、未来へ通じるニュアンスを含んでいるとも受け取れるのだ。

 

企画者にそうした意図があったかどうかはわからない。しかし、少なくとも日本の将来を担う人たちには、「私にもっといい未来」を目指して邁進して欲しいと切に願う。一隅を照らすこと、その集合が、希望あふれる社会を切り開くのだと信じて。